
ブレイン
1
コヤナギ博士の研究所のエントランスでジョーは立ち止まる。
目の前にいた女性が頭を下げる。
顔を見て戸惑った。
「キミは…」
「フランソワーズ、あのさ…」
「なあに?」
「…何にもない…」
フランソワーズは首を傾げる。
ジョーはフランソワーズを後ろから抱き締める。
「どうかしたの?」
「いや、別に…」
ジョーはフランソワーズの首筋に顔を埋める。
「暖かいな…」
ジョーはフランソワーズの温もりを味わっていた。
翌日早くジョーはヨコハマのコヤナギ博士の研究所に向かった。
いつもと変わらない朝。
家事を済ませ、バレエのレッスンに
出掛ける。
何もないはずの一日だった。
ジョーが帰って来なかった事を除けば…。
車は研究所の駐車場に止まっていたらしい。
ピュンマは研究員達に聞き回ったが、いつもと変わらなかった。という返事だけだった。
アルベルトは、ジョーの携帯や、脳波通信などで呼び掛けたが、反応がなかった。
フランソワーズが部屋を見に行ったら、クローゼットから冬服が無くなっていた。
真冬にしか着ないダウンジャケットも無くなっていた。
クローゼットに座り込み、号泣する。
「何が…起こっているの…?」
昨晩何かをいいかけていたのを思い出す。
何も言わず居なくなる人ではない。
何か事件に巻き込まれたとしか…。
でも、ちゃんと身支度をしていなくなっている。
スーツケースも消えていた。
2
あれから3日経ったが、ジョーの居場所は依然としてつかめなかった。
フランソワーズは毎日祈る。
無事でいますように…と。
ピュンマが研究所のエントランスでジョーが誰かと話をしていたという情報を聞いてきた。
黒髪の女性だった。…と。
ジョーは顔見知りのようだった…と。
そして女性は泣いていた…と。
フランソワーズの心がザワザワと音をたて始めた。
恐らくその女性と一緒なのだろう。と。
フランソワーズは、考えれば考えるほど自分を追い詰めていた。
あの時…話を無理にでも引き出せていたら…。
悔やんでも、もう遅かった。
ジョーの部屋に入る。
余計な装飾品は一切ない、シンプルな部屋。
いつでも自分の痕跡が消せるような…。
多分それは定まった住まいのなかった彼が持つ習性のようなものだったのだろう。
殺風景な部屋なのに、ジョーがいなくなった事でさらに暖かみを無くしていた。
フランソワーズは溢れる涙を堪えきれずにいた。
ふとベッドの下に丸めた紙屑のようなものを見つけた。
くしゃくしゃに丸められたそれを開いてみると、ジョーの字で何かが書いてあった。
55゜45'N
37゜37'E
何かの座標のようだった。
3
ピュンマがメモの座標をコンピューターに入力してみる。
「…モスクワ?」
何故モスクワなのだろう。
モスクワ…と言えばイワンだが、彼はあと数日眠っているだろう。
起きるのを待っていられなかった。
ピュンマは研究所で待機をして、イワンの目覚めを待つことにした。
アルベルトとフランソワーズがモスクワに向かう。
今はただ少しの手懸かりにでもしがみつきたかった。
モスクワは寒かった。
体温調整を忘れてしまったアルベルトもさすがに「寒いな」と言う。
ウールのロングコートにぐるぐると長めのマフラーを巻いたフランソワーズが黙って頷く。
「こう寒いと…あれが食べたくなるよな…」
「あれって?」
「鍋やった後にジョーが作ってくれた…」
「「シメのゾースイ!!」」
2人同時だった。
お互いにクスッと笑う。
冬になると、数が多いからよく鍋をする。
具を全部食べ終わった汁をジョーは「いい出汁」と呼んでいた。
そして残り物野菜と冷ご飯を入れ煮込み、溶き卵を入れこう言った。
「〆の雑炊出来上がり♪」
思い出すだけで涙が溢れてしまう。
アルベルトが肩をポンと叩き
「大丈夫だから、俺達で助けよう」
と慰めた。
赤の広場に行ってみた。
「私、ここ前にも来たことがあるわ」
「ほー、意外だな」
フランソワーズとロシア…何の共通点がある?
「モスクワ国際バレエコンクールに出場した事があるの」
「なかなか優秀だったんだな」
「賞は取れなかったけれど、初めての異国だったわ…」
まだほんの少女の頃の話よ…。
ふと見覚えのあるダウンジャケットを見かけた。
「ジョー?」
フランソワーズは必死で人を掻き分ける。
近くまで来た。
会いたかった人が目の前にいる。
しかし…彼の隣には黒髪の女性がいた。
「ジョー、どうしたの…?」
フランソワーズの呼び掛けに全く反応がなかった。
まるで初対面の人に会うかのような顔。
フランソワーズはその場に立ち尽くすことしか出来なかった。
4
ホテルに戻った。
フランソワーズはあの時のジョーの顔を忘れられなかった。
あんな顔をするなんて…。
笑顔で「フランソワーズ」と呼んでくれていた彼を思い出す。
優しく抱き締めてくれた温もりを思い出す。
今はもう…思い出でしかない。
暖炉の前でジョーはぼんやりしていた。
逃げることもせずただ、ここにいた。
隣に黒髪の女性が座る。
「赤の広場で出会った女性、あなたの事を知っていたみたいよ…」
「知らない」
氷のように冷たい声だった。
アルベルトは、ジョーと女性とすれ違い様に、小さな通信機を着けていた。
気づかれなければ居場所がわかるはず…でも。
フランソワーズのショックは大きいだろう。
居場所がわかってもあのジョーと対峙しなければならない…。
奴に何が起こっているのか…。
翌朝イワンが目覚めたとピュンマから連絡がある。
行動開始だ。
アルベルトは一人でジョーのいる場所へ潜入するつもりでいた。
フランソワーズには精神的な負担が大きすぎるからだ。
しかしフランソワーズは自分も行くと言った。
彼を救えるのは私達だけなのだから…と。
その目に強い光を感じていた。
イワンが示したジョーの居場所と、発信器の場所が一致する。
イワンは静かに、何の感情も示さずにこう言った。
「僕の父親の研究施設にジョーはいる…」
誰もが息を飲んだ。
5
ロシアに入ってから、青空を見たことがない。
青い空と青い海が大好きなジョーに、こんな空は耐えられるのかと思ってしまう。
今日は雪まで降りだした。
ブーツの跡が続いている。
ここに跡を残したくないのに…。
ボリジョイ劇場の前に立つ。
バレエが全てだったあの頃。
世界の高い壁を知ったのはここだった。
またここに来るとは思わなかった。
こんな事で…。
アルベルトは革のハーフコートを着込んでいた。
不安になり、袖を掴む。
アルベルトが振り返る。
「大丈夫か?」
不安を感じ取ったのだろう。
いつもはクールだが、本当は優しいのは長い付き合いだから知っている。
「ええ」
「じゃ、行くか」
イワンが指定した場所に、イワンの父親のガモ博士の研究施設があった。
イワンの産まれた家だ。
イワンにはロシアの思い出などないかもしれない。
父親に脳を改造された。
母親は止めに入って殺されたらしい…。
イワンは父親に対して何の感情も持っていなかった。
ただそこにジョーがいるとしか言わなかった。
研究施設にはガモはいなかった。
ここ数年戻っていないらしい。
ガモの弟子たちが研究施設を守っていたが、やり方がフェアでなかった。
研究員を誘拐し、監禁して働かせていた。
何故か誘拐された研究員の家族や恋人も施設内で暮らしていた。
驚いたのは家族や恋人の体内には爆弾が仕掛けられていた。
逃げ出すことも出来なかった。
フランソワーズがハッキングに成功し、爆弾のスイッチを無効にした。
研究施設のコンピューターを「掃除」する。
フランソワーズは2つのファイルに目を止めた。
「001」と「009」
「001」は、ガモが残した改造時のデータのようだ。
博士に渡す為、バックアップを取る。
「009」は、最近のデータだった。
そのファイルを読んでいくうちに、
ジョーが何故無反応だったのか、理解してしまった。
「…そんな事が…」
出来るというのか…。
イワンと博士とピュンマがドルフィンで駆けつけた。
フランソワーズはイワンの事が気になったが、イワンは故郷の土を踏むことを拒み、ドルフィンに残った。
ピュンマがアルベルトと合流し、研究施設の破壊にあたる。
捕らえられた研究員達とその家族を救出する。
ジョーと黒髪の女性も救出されたが、「あの服」を見ても、アルベルトとピュンマの顔を見てもジョーは何の反応も示さなかった。
アルベルトは2度目だったから、さほど驚かなかったが、ピュンマは戸惑いを隠せなかった。
「ジョー、どうしたんだ?」
6
緊急事態にジェットとグレートも合流した。
ドルフィン内では、体に爆弾を付けられた人達の爆弾摘出作業が博士によって行われていた。
ジョーと同行していた黒髪の女性も身体に爆弾を付けられていた。
爆弾は小さなもので、摘出もそう難しくはなかった。
ドルフィンのコックピットに仲間が集まる。
「しっかし、ひでーことするよな」
ジェットが呆れていた。
「お前の親父さんの研究施設なんだろ?親父さんの居場所はつかめなかったのか?」
グレートが静かに問う。
「父親は既に死亡している」
あまりに淡々と語るイワンに、フランソワーズは耐えられなくなり、ゆりかごに手をさしのべ抱き締める。
「これだけの大掛かりな研究施設だ。ガモ弟子達をを誘拐ってだけで逮捕して、もしすぐ釈放されたら…」
ピュンマが案ずる。
「弟子達は洗脳しておいたから、もう役には立たない。」
イワンが相変わらず淡々と言う。
「…目的は…何だったんだ?」
アルベルトが口を開く。
「脳改造による超能力者の量産、産業スパイとして世界各国に送り込むために…。」
黙っていたフランソワーズが話し出す。
「働かされていた研究員の家族がまず実験台にされようとしていた。ジョーと一緒にいた女性の脳を調べたら、
過去のデータにジョーが出てきたらしく、彼を捕まえるよう指示された。
ジョーは彼女と何らかの知り合いで、彼女と捕らえられた人達を助けるために、単身でロシアに乗り込んだ。
研究員達は、ジョーの脳の情報が欲しかった。
ジョーはイワンのお父さんの研究施設と知ると、イワンを守るために…」
ファイルの内容を淡々と話していたフランソワーズが言葉を止めた。
「自分の脳の記憶を…消したの…」
一同がざわめいた。
「そんな事が出来るわけないじゃないか!!」
ジョーの豹変ぶりに戸惑っていたピュンマが怒鳴る。
「…出来たんだな…アイツには…」
目の当たりにしたアルベルトが悟る。
「ジョーだって、脳を改造されている、無意識ではあるが、危険を感じて記憶を飛ばしたんだと思う。
後、僕を守るためだけじゃないよ、フランソワーズ。」
イワンはフランソワーズの顔を見る。
「君たち…特にキミの為だと思うよ、同行していた女性に爆弾が仕掛けられていた話で思ったんだ、
フランソワーズとリンクしたんだ…と。キミに危険が迫れば今の生活を続けられないと、キミの記憶を消したんだよ…。」
「…そんな事ってあるのかよ…」
グレートがうつむいた。
フランソワーズは涙を流す。
私を守るために、私との思い出を消してしまうなんて…。
そんな…事って…。
7
フランソワーズはメディカルルームをノックする。
中から女性の声がした。
中に入ると黒髪の女性がベッドに横になっていた。
フランソワーズの顔を見て、女性はうつむく。
「…ごめんなさい…でも、こうするしかなかったの…」
フランソワーズはベッドサイドに近づくと、丸椅子に座る。
「事情を説明してくれないかしら…」
彼女の名前はアユミ、ジョーの昔の知り合いだという。
恋人が脳科学を専攻している科学者で、ガモ弟子に捕らえられた。
その時一緒にいたアユミも捕まり、体内に爆弾を入れられた。
脳の記憶でジョーの姿を捉えたガモ弟子達は、ジョー捕獲を命じた。
日本の生体工学を専門にしている研究所を当たるように言われ、探していたらジョーに出会えた。
助けてほしいと懇願した。
体内の爆弾の事も、捕らえられた研究員達の事も話をした。
翌日ジョーとモスクワに渡った。
「ガモ博士」という名に、ジョーの態度が変わったのだと言う。
ジョーも脳の情報を見られそうになり、直後倒れたという。
その後彼は記憶喪失になった…と。
「そう…」
「ジョーは今どうしているんですか?」
アユミが心配なのか聞いてきた。
「眠ってるわ」
「あなた…バレエをしているのですか?」
「…え?」
「記憶喪失になってからのジョーが唯一反応したのが、モスクワで見たバレエ学校のレッスン場だったの…
何か深い記憶があるのかと…」
この人の前では泣きたくなかった。
でも止めることが出来なかった。
もう出る涙もないと思っていたのに、涙が溢れてきた。
8
日本に戻った。
アユミとアユミの恋人の脳科学者タナベは、ジョーの記憶が戻るまでギルモア邸に残ることになった。
イワンと博士とタナベが、ジョーの脳内を調べた所、生体部分の影響なので記憶の回復は時間が解決するだろうということだった。
ただ、強いストレスにより、見られたくなかった記憶を強制的に遮断しているので、フランソワーズの事を思い出すのはかなり時間を要するだろうという事だった。
とにかくリラックスした環境が薬らしく、研究所のメディカルルームから自室に移動した。
ジョーは始めて見る部屋のように、落ち着きがなかった。
テーブルの上の本を手に取る。
「物理工学?」
記憶がない…。
フランソワーズがジョーの部屋を訪れた。
「フランソワーズ」
笑顔で振り返るジョーを錯覚した。
目の前にいるのは怪訝な顔をしたジョーだった。
「キミは誰?」
遠慮のない冷たい言葉だった。
「…私の名前はフランソワーズ、フランス人よ。」
「何故フランス人なのに日本にいるの?」
「…それは…」
フランソワーズが戸惑うと
「アユミはどこにいる?」
フランソワーズは固まった。
私は今、彼の記憶の一片もないのだと…。
彼を支えるのは、記憶喪失になった後に一緒にいたアユミなのだから…。
「…呼んでくるわね」
静かにドアを閉めた。
リビングのソファーで元気なく俯くフランソワーズに、ジェットが「キレた」
「あの馬鹿野郎の目を覚まさせてやる!!頭一発殴れば記憶なんて戻るんだ!!いつまでも甘やかしてられっかよ!!」
ジェットの剣幕にみんなが一斉に制する。
「ジョーが、ジョーが…って、じゃあフランソワーズの事はどうでもいいのかよ!!」
フランソワーズがジェットを見上げる。
「いいのよ、私の事は…」
ジェットはリビングを飛び出した。
9
ジョーは部屋のクローゼットを開ける。
自分の服なのだろうが、全く記憶がない。
奥に違う服がある。
出してみると、女性物の服だ。
「…え?」
そんな趣味があるのか…。
イヤ、記憶がないけれど、それだけはないと…思う。
じゃあ、誰のだ?
ノックの音がする。
アユミだ。
「具合はどう?」
「…これ、キミの?」
アユミはジョーが手にしていた女性物のブラウスを受けとる。
「私の訳ないでしょ?」
…彼女のね。
…そういう仲なのね…。
「あなたの一番近くにいる人の物よ」
ジョーは考えているようだったが、思い出せないようだ。
「失礼かと思うけど、あなたの記憶を戻すためだから…」
ジョーのスマートフォンを取り出す。
記憶を無くしてからアユミが預かっていた。
写真のフォルダを開ける。
アユミは写真をスライドしながら涙を流していた。
「どうした?」
「…ごめんなさい…本当にごめんなさい…」
ジョーがスマートフォンを受けとる。
写真に写っていた人物…。
さっきの…フランス人だ…。
彼女は…いったい…。
ジェットは、リビングを飛び出すと、研究所に向かった。
研究所は居住地の地下にある。
研究所に入るなりジェットは怒鳴る。
「タナベ‼︎何とかしろよ!!」
アユミの恋人に詰め寄る。
「だから、今懸命に…」
「今すぐなんだよ!!お前等は一件落着でいいかも知れねーが、お前等のせいで苦しんでいる奴もいるんだよ!!」
ジェットはタナベの胸ぐらをつかんだ。
10
ジョーは自分の携帯に入っていた写真を眺めていた。
青い空と青い海をバックに、白いワンピースを着た女性が振り返っている。
髪とワンピースが風になびいている。
とても綺麗な写真だった。
とても幸せそうな笑顔だった。
撮影したのは自分だろう。
またノックの音がした。
今、見ていた写真の人だ。
写真の笑顔は何処にもなかった。
「ご飯、持ってきたわ…」
今、リビングでご飯を食べるわけにはいかないだろう。
ジェットの暴れっぷりを見たら、ジョーの顔を見るなり何をするかからない。
皆が制した本当の理由は、ジョーがサイボーグという自覚が無い事だった。
力加減を誤れば相手を殺してしまいかねないからだった。
ジョーはフランソワーズをじっと見る。
先程とは少し違う目だった。
記憶の糸口を探るような…。
フランソワーズは自分に関係している…それに気づいたようだ。
食事をテーブルの上に上げているフランソワーズにジョーは問う。
「キミと僕はどういう関係なの?」
フランソワーズはジョーのいる方向に顔を向けた。
抱き締めたいのに、触れたいのに…。
いつもは近かった距離が遠い…。
「あなたは私の大切な人よ」
笑顔で言えていただろうか…。
11
夜、眠るときはフランソワーズが一緒だった。
…と、いうよりも「監視」という名での事。
ジョーに記憶のない今、フランソワーズは他人だし、一緒のベッドで眠ることも許されない。
だからベッドサイドに椅子を置き、そこで見守ることしかできない。
逃げ出されては困るから…。
ジョーは魘されているようだった。
自分が何者なのかもわからない、彼も苦しみの中にいた。
突然ジョーが叫んだ。
「どうしたの?大丈夫?」
フランソワーズがジョーに触れようとしたら、ジョーが突然起き上がり
「うるさい!!」
と言い、フランソワーズを突き飛ばした。
突き飛ばされた勢いで椅子から落ち、壁に背中をぶつけた。
「…ごめん…」
フランソワーズが壁際でうずくまっていると、動揺したジョーがベッドから降り、フランソワーズに近づいた。
フランソワーズの体を起こす。
目と目が合った。
その後のジョーの行動に、フランソワーズは涙を流す。
抱き締められ、キスされた…。
でも、いつものキスではない。
私達の歩んできた時間など何もない…。
空っぽな…キス。
ジョーはまた「ごめん」と言った。
抱き締められたのに…彼をとても遠く感じていた。
12
タナベの苦心の策で、ジョーの脳に刺激を与えることになった。
それがどうなるかは解らないが、何かをやらなければ赤毛に殺られる。
フランソワーズはテラスで空を眺めていた。
流れる雲をただ眺めていた。
昨夜のジョーの行動が理解できなかった。
何故キスをしたのか…。
彼の中で何かが起こっているのは確かだけれど…。
処置が終わったと連絡が入ったので、フランソワーズはメディカルルームに入る。
眠っているジョーに近づく。
記憶を無くす前と何ら変わらない寝顔。
目を覚ませば、名前を呼んでくれる…。
ジョーが目を覚ました。
「…キミが側にいてくれたのか…。」
「気分はどう?」
いつもジョーが目覚めるとこの言葉をかけてしまう。
「…。」
いつもなら何らかの返事をくれるのだが、言葉が出ない。
フランソワーズは深呼吸をする。
「ごめんなさい…時々記憶が戻ったんじゃないかと勘違いしちゃって…」
「僕って…どんな人間なの?」
自分が何者なのか…それすら解らない。
辛いだろう。
フランソワーズは暫く考えると
「正義感が強くって、自分より他人を優先して、心が優しくて、そして…」
言葉を切ったフランソワーズを、ジョーはじっと見る。
「泣き虫よ」
「正義感が強い泣き虫か…」
ふっと笑う。
フランソワーズも一緒に笑う。
あの写真のように…。
ジョーの胸がドキッとした。
13
ジョーの記憶が戻らない事以外は、穏やかな日常だった。
ジョーも帰ってきた頃より落ち着いて来ているように感じる。
アユミを呼ぶこともなくなり、フランソワーズと一緒に過ごすことが多くなった。
海が見たいと言ったので、一緒に散歩に行くことにした。
夏の澄んだ海とは違い、冬が近い海はどことなく寂しい。
砂浜を歩いていると、急にジョーが立ち止まる。
「記憶が戻っていないのに、こんな事を言うのは申し訳ないんだけど…。」
フランソワーズは小首を傾げる。
「キミの事が好きになってしまったようだ」
「え?」
何を言い出すのかと思えば…。
驚いているフランソワーズに
「ごめん、言わずにはいられなかった。キミの写真を見てから…」
写真?
「キミが気になって仕方ない…」
何だろう…この気持ちは。
記憶を無くしたジョーは、フランソワーズとイチからやり直そうとしているのか…。
もう泣きすぎるほど泣いているに、涙は枯れることがないようだ。
涙がつっ…と流れた。
「キミは僕の事を泣き虫だと言ったけど、キミの方がずっと泣き虫だよ…」
「…ごめんなさい」
「きみの気持ちが聞きたい」
フランソワーズはジョーと向かい合う。
少し背伸びをして、ジョーにキスをした。
「これが私の答えよ」
このまま記憶が戻らなくても、ジョーとイチからやりなおしても…いいのかもしれない。
そんな事を考えてしまった。
サイボーグであることも、過酷な運命だという事も、壮絶な過去も、全て忘れているのだから、それはそれでいいのかもしれない。
「寒いから家に帰りましょう」
引き返し、歩き始めたフランソワーズ。
砂浜に足を取られバランスを崩した。
「あ!危ない!!」
ジョーがバランスを崩したフランソワーズを抱き止める。
…が、ジョーもバランスを崩し、一緒に倒れた。
フランソワーズの下敷きになったジョー。
フランソワーズが身を起こし「大丈夫?」とジョーを起こそうとしたその時。
急に抱き締められた。
「え?」
フランソワーズは動揺した。
「どうしたの?」
「…フランソワーズ」
「え?」
彼が私の名前を呼んだ。
14
ジョーの記憶が戻った。
何も難しい事はなかった。
「フランソワーズの危険」で、記憶を飛ばし、記憶を戻した。
タナベは、脳科学的にジョーの脳に非常に興味を持ったが、ジェットに睨まれ諦める。
アユミはフランソワーズを呼び出した。
ジョーの記憶が戻ったので、ここを出ていくと言う。
ギルモア博士の口利きで、日本で脳科学を研究している研究施設に入れることになった。
アユミも一緒に行くという。
「ジョーの記憶が戻った本当のきっかけはジョーのスマホに入っていた写真なの」
「…それで写真と言っていたのね」
「あなたの写真よ」
フランソワーズがハッとする。
「あの写真は…あの表情は…絶対の信頼関係を表していたから…。
2人の築いてきたもののような…。
それを感じ取ったのね。」
「所で…落ち着いたら聞こうと思っていたんですが…」
フランソワーズが改まる。
「あなたとジョーってどんな関係だったんですか?」
気にはなっていたが、なかなか聞けなかった。
いくら恋人が捕らえられているからとはいえ、いくら体に爆弾が仕掛けられたとはいえ、フランソワーズに何も言わず、
家出したようにモスクワに飛んだジョーを見て、過去にただならぬ関係だったと思わずにはいられなかった。
「何もないわよ、私の父親がジョーを面倒見ただけなの。私は彼の事を好きだったけれど、彼は人を愛せない…って」
アユミはフランソワーズに笑顔でいう。
「あんなに変わっていて驚いたわ。あなたが彼を変えたのね…ありがとう。」
15
「元気で」
「色々ありがとう、彼女と仲良くね」
アユミとタナベは、新天地へ向かう。
ギルモア邸から近いバス停まで見送る。
ジョーとアユミが握手をしていた。
フランソワーズは離れた場所で見守っていた。
バスが出発した。
見えなくなるまで見送ると、くるっと振り返る。
「帰ろうか」
フランソワーズに静かに言う。
バス停からギルモア邸まで徒歩で10分くらいある。
フランソワーズはジョーと並ぶ。
ジョーがフランソワーズの手を握った。
「不思議だな…って思った」
フランソワーズはジョーを見上げる。
「記憶を無くしても、キミの事を好きになっていた。」
記憶がない時の記憶も残ったらしい。
「つまりですね…どんな事があっても、僕はキミの事が好きになるって事で…だから…」
ジョーは少し笑って
「諦めてください」
フランソワーズはクスッと笑う。
「じゃあ私はあなた以外の人を好きになってはいけない訳ですね」
わざと茶化す。
「いじめないでください。」
ジョーが握った手に力を入れる。
「もう…あんな危険な事はやめてくれないと…他の人を好きになるかもしれないわよ。」
「ごめんなさい」
ペコッと頭を下げる。
ジョーが顔を上げると、フランソワーズと目が合う。
2人で吹き出す。
「真面目に言ってたんだけどな」
ジョーが膨れる。
「だって、可笑しいんですもの」
フランソワーズは堪えきれず笑いだす。
「いつまで笑ってんのさ」
うつむいたまま笑っているフランソワーズの肩に手をかける。
肩が震えていた。
「…泣いてるの?」
「…泣いてなんか…いないわ…笑って…」
ジョーがフランソワーズを抱き締めた。
「ごめん…また辛い思いをさせちゃったね…」
「…いいの、戻って来てくれたんですもの…」
フランソワーズが顔を上げると、ジョーがじっと見ていた。
静かに唇を落とす。
フランソワーズは思う。
やっとジョーが帰ってきたと。
空っぽなキスも、記憶を無くしてから彼が自分を好きになってくれたキスもあったけれど、
記憶がある、2人の歩いてきた日々の上のキスには敵うわけがないと…。
涙が頬を伝う。
辛い涙ではなく、嬉し涙だった。
「泣き虫」
ジョーはにっこり笑うと再びキスをした。
~おしまい~
2015.11.21~12.6