
STEP
1
「何だかうちの室内急に華やかになりましたね」
同期の研究員がフィリップに囁く。
男所帯だったこの研究室に、研修を終えた女子研究員達が赴任してきた。
昔は研究職の女子と言えば身だしなみにこだわらず、自分のように元素記号以外愛せない…
みたいな子が多かったのだが…。
何だろう…
キラキラしている。
そしてその女子達が元素記号以外に興味を持っているもの…
ドアが開くと女子達の視線を一手に引き受け、女子達が囲んでいる。
「キミ達、今日からここなんだ」
視線の先はニッコリ笑う。
「よろしくお願いしまーす!」
女子達はもう一緒にランチ食べる争奪戦を始めているだろう。
横並びに緊張が走っている。
「どんなに華やかになろうが、ここに女子が100人入ろうが、みーんな島村さんが持って行っちゃうから」
先ほどの研究員が諦め顔で呟く。
女子100人より、僕は…
フランソワーズさん1人持って行かれちゃってるんだから…
週の半分位しか来ないジョーが女子研究員に囲まれている様を、他の研究員は恨めしそうに眺めている。
「島村さん、新人研修担当したんだよね。所長がきっと仕組んだんだよ」
研究員がフィリップに言う。
「仕組む?」
「辞めさせないためだ。すぐブラック企業って言われて拡散される。それ封じの最終兵器だ」
「まさに…最終兵器」
フィリップも妙に納得した。
でもこの研究室なら好きな事やらせてもらえるし、ブラックなんて微塵も感じた事はないが…
「イメージと違ったとか残業が多い…とかね」
そんなものなのだろうか?
自分は早くフランソワーズさんの役に立ちたくて、一人前になりたくて、残業だろうが、どんな仕打ち受けようが頑張っているのだが…。
週の半分男がフィリップの元にやってきた。
「フィリップ、しばらく新人さんの教育係やってくれない?」
「えぇ?」
あからさまに嫌な顔をした。
「そんな顔すんなよ、ご指名なんだから」
指名?あのキラキラした子の中に僕を指名?
フィリップは横並び女子研究員に目を向けた。
2
新人の女の子達を穴が開くほど見ていたらしい。
こっちを見てコソコソ始まった。
とても自分を指名するような子はいない。
ジョーがフィリップにオイデオイデする。
フィリップは渋々女子達の元に歩く。
先ほど穴が開くほど見ていたからか、一斉に一歩下がった。
ただ1人を除けば…
まさか…
どう見てもこの中で1番の
美人
ジョーはその美人の隣に並ぶ。
「新人の佐伯さん、フィリップを目標にしているそうだ。」
「え?」
フィリップはジョーが紹介した佐伯という女性を見る。
初対面…だと思うが…
「佐伯美香です。よろしくお願いします」
フィリップは戸惑いながら
「あのー、どこかでお会いしましたっけ…」
と自信なさげに言う。
書物も出してない、メディアにも出ていない。
この研究室で地味に生きてきた。
目標にされるような存在では…
「2年前、インターンでフィリップさんに色々教わりました。その時の仕事に対する情熱に心を打たれて、この職種を希望しました。まさかフィリップさんと同じ会社に採用していただけるとは思っていなかったので、これ以上の幸せはありません!」
フィリップは気がつくと壁際にいた。
これ以上下がれない。
美香のあまりの勢いに、フィリップは怯えた。
「そ…そんな情熱なんか…」
とにかく2年前の記憶がない。
こんな押しの強い美人がいたのかさえ…
「ま、よろしくな」
ジョーも殺気を感じたか、他の女子研究員を連れその場を去る。
「ジョーさん〜待って〜」
「…聞こえない、聞こえない」
ジョーはフィリップの顔を見ずにその場を去った。
3
ここの研究所は、全員が集まる広いフロアに机が並んだ部屋と、研究する為の個室がある。
いつどの時間にどこにいてもいいのだが、フィリップは事務仕事の時はフロアにいて、研究の時のみ個室を使う。
フロアには社員全員のデスクがあてがわれ、ジョーのデスクもある。
ジョーのデスクには見られていないメモや付箋が貼られている。
ここに用件のメモを置いておくと、他の女の子のお誘いと一緒に処分されるんだろうな…。
フィリップはジョーのデスクをぼんやり眺める。
だいたい島村さんはデスクにはいない、あの人事務仕事嫌いだし…
「あのぉ」
ジョーのデスクの前でブツブツ言っていた後ろから声を掛けられ慌てるフィリップ。
「何かお手伝い出来る事があればやります!」
美香嬢がなんなりと!とやる気満々に言う。
「今日はこれと言ってやってもらうような事は…じゃあこの書類に印鑑押しておいてもらえるかな?」
「はいっ!」
美香が嬉しそうにフィリップのデスクに座る。
押しが強いけど素直じゃないか。
フィリップも思わず笑顔になる。
「印鑑はどこにあるのですか?」
「引き出しの1番上…ちょっと待って」
フィリップが自分の机の1番上の引き出しを開ける。
印鑑を探して引き出しの中をゴソゴソしている時、美香がある物を見つける。
「どうして…まだ…」
「え?何か言った?」
フィリップは美香の言葉が聞き取れなかった。
「いえ、何にもありません」
「はい、印鑑、お願いします」
「…はい」
美香の様子が変わった事にフィリップは気づいてはいなかった。
4
「島村さん!ちょっといいですか?」
美香はジョーを呼び出した。
「あれ?フィリップは?」
「外にご飯食べに行きました」
「一緒に行けばよかったのに」
「島村さんに話がありまして」
「何?」
「…ここでは…ちょっと」
2人は屋上に出る。
このビルはそれほど高くない。
周りに高いビルが並ぶ。
「何?話って」
ジョーから切り出す。
研修時から彼女だけは違うなと思っていた。
本当にここの研究をしたいんだと。
フィリップが自分たちを助けたいと言っていた時と被って見えた。
後でフィリップを目標にしていた事を知る。
フィリップも確か…コズミ博士に憧れて日本に来たんだっけ。
フィリップの元で一緒に働けばきっと2人共この研究所になくてはならない存在になるだろう。とジョーは密かに思っていた。
暖かく見守りたいと思っていた彼女の口から出た意外な言葉。
「島村さん!フィリップさんは2年前とぜんっせん変わらないじゃないですか!」
「…?」
何が言いたいのかわからない。
ジョーがポカンとしていると
「島村さんが悪いんです!島村さんが彼女との仲をハッキリさせないから!フィリップさんはまだ叶わない恋を続けている!」
「は⁈」
さすがにジョーも声を荒げる。
「島村さんがフィリップさんに諦めろって言わないから!」
「諦めるって…何を?」
「フィリップさんの頭の中には島村さんの彼女の事しかないんです!2年前からずっと」
そんな事言われても…
「フィリップさんは現実を見ていないんです!」
いきなりの強い勢いに圧倒されながらも、ジョーはニヤリとする。
「ふーん、佐伯さん、フィリップの事好きなんだ」
「やめてください!からかわないでください!フィリップさんの事を尊敬しているんです!そんな愛とか恋とか!」
と、言いながらジョーを叩く。
「痛い!やめろって!」
「あ…すみません」
「愛とか恋じゃないなら別にいいでしょ?フィリップが誰を好きでもさ」
「あなたはそれでいいんですか?」
「いいとか悪いとかそういう問題では…」
「あー!ハッキリしないわ!」
美香はそう言いながら屋上を後にする。
1人残されたジョーは、ぽかんとするしかなかった。
5
美香は言ってしまった後にいつも後悔をする。
思った事を口にしないといけない性格なのか、いてもたってもいられなくなる。
それなのに、本当に想いを伝えたい相手には何も言えない。
階段の踊り場で、ランチ帰りの他の女子研究員と出くわす。
「ちょっと、佐伯さん、いいかしら?」
新人研修中にもリーダー風を吹かせていた女子研究員が美香を呼び止める。
「何か?」
「あなた、島村さんに近づく為にフィリップさんの元に付きたいって言ったようね?」
「は?」
「フィリップさんが出かけている内に島村さん呼び出すなんて、随分じゃない?」
「一体何を言っているのかわからないんですが…」
「島村さんを独り占めしようなんてズルくない?」
この人達は何もわかっていない。
「独り占めとか…そもそも島村さんはあなた達のものでもないでしょ?
島村さんにどんなに媚びたって、無駄だと思いますが?」
「媚びるだなんて…そんな事」
先ほどまで勢いがよかった女子研究員が怯む。
「島村さんには美人の彼女がいるの、将来の約束もしているようだから、時間の無駄だと思いますが?」
目の前の女子研究員達の顔色が変わる。
そのまま固まっている女子研究員達には構わず、美香はその場を離れる。
それから間も無く階段をジョーが降りてきた。
「キミ達、休憩終わっちゃうよ、早く持ち場に行かないと」
「あ、はい」
ジョーの言葉に金縛りが解けたかのように、女子研究員達は持ち場に向かう。
その後ろ姿を見送りながら、ジョーはひとつ溜息をついた。
「調子狂っちゃうよな…」
6
2年前、初めて出会った彼の印象
頼りない研究員。
でも自分の研究を熱く語る彼に印象が変わっていった。
1人でも多くの人を自分の開発した薬で助けたい。
彼の意志は美香自身の意志でもあった。
大学の長期休暇中も、所長にお願いして研究所に通った。
その時もフィリップのデスクの1番上の引き出しを開ける機会があった。
奥の方に写真が見えた。
フィリップには内緒でこっそり奥から出してみた。
フィリップと同じ髪の色。
とても綺麗な女の人の写真だった。
きっと国に残している彼女なのだろうと、その時は思った。
淡い好意が芽生え始めていたから、ショックではあった。
数日後、写真の人が研究所にやってきた。
隣にいたのは…
フィリップではなかった。
その時所長が色々話してくれた。
同時に机の中の写真の意味が変わっていた。
あれから月日は流れたはずだ。
なのにあの時と何一つ状況は変わっていない。
なぜ?
フロアにはもう誰もいない。
女子研究員達はこれからみんなで食事に行くと話をしていた。
当たり前だが誘われない。
別に行きたくもないけど…。
そろそろ帰ろうとは思っていたが、こんな気持ちのまま帰る気になれなかった。
フィリップの机の上に本があった。
コズミ博士の著書だった。
読み始めたら面白く、時間が経つのを忘れていた。
「あれ?まだ残っていたんだ」
夢中になって本を読んでいたから、声を掛けられびっくりする。
「あ…お疲れ様です」
フィリップだった。
「その本面白いよね、もう読んだから持って帰っていいよ」
「え?いいんですか?ありがとうございます!」
美香は本をカバンに入れ立ち上がる。
窓の外を見る
すっかり日が暮れていた。
「もう外は真っ暗ですね」
「お腹空いたね…予定ないならどこかで食べてから帰ろうか?」
思いがけないフィリップからの食事の誘い。
デートなんかじゃない事位わかっているのだが、あまりに急な展開にドキドキが止まらない。
「い…いいんですか?」
「佐伯さん、仕事出来るから助かったよ。お礼も兼ねておごるからさ」
美香は慌てて更衣室に走る。
7
美香が女子研究員から孤立しているのは、フィリップにもわかっていた。
他の研究員達はどの子が可愛いという話になっているが、美香は綺麗だけど性格キツそうだよね?と言われていた。
最初の勢いの印象が強かったが、一人でいた様子はどこか寂しそうに見えた。
おいしい物でも食べて元気になれば。と少々マトが外れていないでもないが、フィリップは美香をごはんに誘った。
近場の安い居酒屋…と思ったが、相手は女の子。
オシャレな店がいいのかな?
フィリップはちらっと美香を見る。
「女の子と食事…なんて行かないから、どんな店がいいのかな?」
美香はそんなフィリップの様子ににこっと笑う。
「私、大学時代から一人暮らししているんです。この性格でしょ?あまり友達がいなくって、いつも誰もいない家に帰って1人でご飯を食べているんです…」
「僕も似たようなものだな」
美香がフィリップを見上げると笑っている。
「フランスから日本に来て、慣れない環境に日々悩んでいた。いつも1人だった。」
「でもフィリップさんには研究所の人達や、島村さん達だって…」
美香はわざと「達」と付ける。
写真の彼女の存在は、フィリップにとってここにいる理由なのだろうから。
「でもやっぱり1人だと思う時がある。
国に帰りたいとか、母親を思い出したり…なんかマザコンだな」
「そうですね。寂しいと故郷を思い出したりしますよね」
「佐伯さんはどこの出身なの?」
「東北です」
「なるほど、だから色白できれいなんだ」
フランス人なのに、妙に日本人らしい事を言うフィリップに美香は吹き出す。
「何?何か面白い事言った?」
「だって…フィリップさんまるで日本人みたいだから」
「そう?」
「あれ?どうした?」
向こうから歩いて来たのは、ジョーだった。
そしてその隣の人を見つけた時のフィリップの表情を、美香は黙って見ていた。
8
「フランソワーズさん!」
フィリップが嬉しそうに手を振る。
美香の存在など忘れたかの様にフィリップはフランソワーズの元へ走る。
慌てて美香が追いかける。
「フィリップさん!」
フランソワーズも嬉しそうに手を振る。
「いま帰り?」
ジョーが美香に聞く。
「はい、お腹すいたからフィリップさんとごはん食べてから帰ろうって事になって…」
フィリップもフランソワーズに同じ事を話している。
「じゃあ一緒にお食事しましょうよ!」
フランソワーズの言葉にフィリップも
「そうですね!」と言っている。
ジョーは美香に
「ごめん、せっかくのチャンスが…」
なんて小声で話す。
「な!そんなんじゃないですから!」
美香が大きな声を出す。
美香はフランソワーズに視線を向ける。
ジョーと美香の様子を笑顔で見ている。
とても穏やかな顔をしている。
同性でも見惚れてしまうほどの美しさに、フィリップの気持ちもわからなくはないが…
4人はカジュアルなダイニングレストランに入る。
フィリップはフランソワーズがいる事でいつもよりお喋りだった。
2人きりで食事出来るかもしれなかった残念感もあったが、話を繋げる苦労を考えたら、ジョー達は渡りに船だったのかもしれない。
ジョー達こそ、せっかくのデートだっただろうに、どちらも嫌な顔せず、楽しそうにフィリップの話を聞いている。
フィリップの気持ちだって2人はわかっているはず…。
食事を終え、店を出る。
寄る所があると言うジョーとフランソワーズと別れる。
フィリップと美香の後ろ姿を見ていたフランソワーズがジョーに
「寄る所なんてあるの?」
と聞く
「せめて駅まで2人きりにさせてあげたい」
と、ジョーは笑う。
「…なんだか…うらやましい」
フランソワーズの言葉は沈んでいた。
ジョーはフランソワーズの肩をぎゅっと抱く。
「あの2人、とてもお似合いですね」
美香はフィリップに言う。
フィリップへの当てつけではなく、本当にお似合いだと思っての正直な気持ちだった。
フィリップは
「そうだよね…」
と呟くように言う。
気に触ったかと気にする美香にフィリップは
「明日もよろしくお願いします」
と笑顔で頭を下げる。
「ま、待ってください!それは私が言う事です!」
美香は動揺した。
「キミが来てくれて助かるよ、研修中だけと言わず僕の助手になってくれると嬉しいな」
美香はフィリップの言葉を頭の中で繰り返す。
フィリップに憧れてこの世界に飛び込んだ。
今言われている事は、夢が叶った瞬間だ。
でも…
何となくモヤモヤした何かが、美香の心に広がっていた。
9
翌日、フロアに入ったら、女子研究員達がコソコソ話をしていた。
どうせ誰かの噂話なんだろうと、知らん顔していたが、その中の1人が美香に話しかけた。
「佐伯さん知ってる?島村さん暫く休むんだけど、どうやら紛争地帯に行ったらしいのよ、何故あんな危険な所へ研究員が行くのかしら?何か聞いてない?」
「別に…何も」
「そう、佐伯さん島村さんと仲良さそうだから話を聞いているかと…聞いていないんだぁ〜」
最後は美香を見下げたような物言いだった。
昨日ジョーと一緒にいる所を指摘してきた女。
美香の反撃に言葉を失っていた。
面白くなかったのだろう。
美香の知らない情報に勝ち誇ったように、女子研究員の輪に戻り「知らなかったわよ!」とわざと聞こえるように言って笑っている。
島村さんが紛争地帯に行った事を誰も心配しないのかな…。
美香は離れた輪に向かって呟いた。
「おはよう」
突然フィリップが顔を出し、驚く。
「あ、おはようございます!昨日はありがとうございました!」
「いやいや、実はね、ジョーさんの奢りだ」
フィリップが照れ笑いする。
「あのぉ…島村さん今日から長期でお休みするって…本当ですか?」
「そうそう、よく知ってるね」
「あの人達」
美香は離れた輪を指差す。
「紛争地帯に行ったって本当なんですか?」
フィリップは美香の言葉に一旦止まり、すぐ笑い出す。
「どうしてそうなるのかなぁ!彼は元々はギルモア博士の助手だから、博士の学会が入ればついて行くんだよ!紛争地帯なんて訳ないでしょ〜」
美香はふと昨日ジョー達との別れぎわを思い出す。
フィリップがフランソワーズに
「気をつけて」と確かに言っていた事を。
「フランソワーズさんも一緒なんですか?」
フィリップの笑顔が一瞬で凍りつく。
また…言ってはいけない事を?
美香は次の言葉を失った。
10
あれから2週間…。
他の女子研究員達は、ジョーの話をしなくなった。
みんな仕事に慣れ始めていた。
そんなある日の朝
フロアのドアが勢いよく開く。
「お久しぶりです!」
女子研究員達かその姿を見つけ集まってくる。
「島村さん、帰ってきた〜!」
その輪から少し離れた所で、美香は胸をなでおろす。
よかった…元気そうで。
ジョーは輪から抜け出し美香の元へ。
「佐伯さん、久しぶり!その後フィリップとはどう?」
「あの夜はご馳走様でした。翌日からいなくなるなら一言くらい言ってくれても…」
「ごめん、ごめん。」
全く悪びれた様子などない。
「フランソワーズさんも一緒に行かれていたんですか?」
「何故?」
「フィリップさん、ずっと元気なくて…心ここにあらず…って感じでした」
「ふーん、あ、ちょっと時間ある?」
ジョーは美香を屋上へ連れ出す。
「きみたちの距離が少しでも近づいているかと期待して来たのになぁ」
ジョーは残念そうな顔をする。
「フィリップさんの頭の中にはフランソワーズさんの事しかないんです。島村さんがはっきりしてくれないから、フィリップさんは諦めきれないんです」
「フィリップがきみを助手にしたいって言ったそうじゃないか」
「何故それを?」
「所長が言ってた。フィリップからお願いされたって」
「仕事上のパートナーとしか思っていないんです。私はそれだけの存在なんです」
美香が屋上のフェンスをぎゅっと掴む。
その手をじっと見ていたジョーが口を開く。
「きみはフィリップに憧れてこの研究所に来たんだよね?」
「もちろんです!」
「じゃあ願いが叶ったんじゃない?それだけの存在でいいんでしょ?」
ジョーは意地悪く言う。
美香は言葉を失くす。
「きみは意地を張っているだけなんだ。本当はフィリップの事が好きなのにさ、フィリップが佐伯さんの方を向かないのを僕のせいにしたいんだろうけど、キミだって、フィリップの心を動かす努力はしたの?」
美香は黙ったまま。
「例えばだよ、僕がはっきり言ったとする。それでもしフィリップがフランソワーズの気持ちを断ち切ったとしても、じゃあ近くにいるきみに…って事にはならないと思うよ」
美香が顔を上げる。
「フィリップにも選ぶ権利はあるし、心がある。彼の心を動かせるように佐伯さんは努力しなきゃいけないと思う」
返す言葉もなく、ただ黙ったままジョーを見るしか出来ない美香に
「僕も出来るだけ協力するけど、佐伯さん自身素直になってフィリップに本心をさらけ出せるようにならなきゃね」
ジョーはくるりと背中を向けた
「また女の子達が騒ぐ前に…退散します」
振り向きニコっと笑い屋上を後にした。
美香は今ジョーが言っていた言葉を頭で繰り返す。
見上げた空は雲ひとつない青空だった。
11
フィリップの助手になれるなんて思っていなかった。
光栄な事だし、夢だった。
なのに何故…
嬉しくないんだろう。
最近はフィリップの研究室にも入れてもらえるようになった。
肩が触れ合うほど近くにいるのに…
美香はドキドキしながら、フィリップの表情を伺う。
「え?どうしたの?」
この人は…きっと私を女と思っていない。
仕事上のパートナーとしか…。
心を動かす努力
ジョーの言葉が頭の中に響いていた。
「フィリップさん…あの…」
「あのさ」
「なあに?」
久しぶりに所長に会いたいとフランソワーズが言うから一緒に出てきた。
今日は研究所に出勤する日ではない。
「はっきりさせるって…どうしたらいい?」
「何を言っているのかわからないわ」
フランソワーズはジョーの言葉に首を傾げる。
「僕らがはっきりしないから、フィリップがキミに対して諦めきれないんだってさ」
「誰がそんな事を?」
「佐伯さん」
フランソワーズはくすっと笑う。
「佐伯さんはフィリップさんの事が好きなのね」
「他人にはビシバシ言えるのに、フィリップ本人の前ではな〜んにも言えないんだ、そして僕を責める」
「責める?」
「はっきりしないからと」
「はっきり…ねぇ」
フランソワーズがため息をつく。
「フランスでははっきりさせなくてもいいって法律があるんだよね?」
「ありません」
「フランスは事実婚ばかりじゃん」
「それ、はっきりさせているって事じゃない?」
「わかんないなぁ」
2人はそれほど深刻な様子もなく、研究所に向かった。
12
研究所のフロアにフランソワーズが入ると、男性研究員達がざわめいた。
女子研究員達は、フランソワーズを見ても何の関心も示さなかったが、後から入って来たジョーと会話するフランソワーズを見て、ざわめき始める。
所長が親しげにフランソワーズの肩に手を置き、自室へ促す。
「誰かお茶を!」
所長がざわざわしている女子研究員の輪に話すと、噂好きな1人が飛び出した。
ジョーはその様子を客観的に眺めながら、フィリップと美香の姿がない事に気付く。
「あれ?フィリップは?」
近くにいた研究員が
「自室にいるんじゃないかな?」と告げる。
フランソワーズが「所長とお話してからフィリップさんの所に行くわ」と言うから、とりあえずフロアで待った。
「久しぶりに見たけど…」
近くにいた研究員がジョーにこそっと言う。
「フランソワーズさん、ますます綺麗になったねぇ」
ジョーは返事をせずに、ジーッと見ている女子研究員達の方に向かう。
「佐伯さんいないみたいだけど?」
女子研究員の1人が
「フィリップさんの所じゃないんですか?最近いつも一緒ですから」
「ふーん」
フランソワーズが所長と話し終わったので、2人はフィリップの個室に向かう。
「フィリップさん、佐伯さんと随分親しくなったみたいだって…所長が」
フランソワーズが嬉しそうに言う。
「また今度一緒にご飯でも行こうか?」
「そうね」
ジョーがフィリップの個室をノックする。
返事がない
「いないのかな?」
ドアに鍵はかかっていない。
開けた瞬間…
「な!何してんの!」
ジョーの声にフィリップが飛び上がる。
美香が床に倒れていて、フィリップがその上に覆い被さっていた。
いきなり飛び込んだシュールな光景にジョーは思わず叫んでしまった。
「どうしたの?」
後ろからフランソワーズの声。
フィリップは慌ててフランソワーズの元に走り寄り
「誤解です!誤解です!これには訳が!」と高速で言い訳をしている。
その光景を見たのはジョーだけだから、フランソワーズは何のことやらわからないのに、フィリップは必死に言い訳をしている。
「大丈夫?」
床に倒れていた美香をジョーが起こす。
「身体は大丈夫ですが…心が折れそうです」
美香は必死に言い訳しているフィリップを見ながらジョーに呟く。
「何があったの?」
「あれです」
美香が指差した先には割れたビーカー
「暴発しちゃって、咄嗟にフィリップさんが私を庇ってくれたんですが…」
と、言いながらジョーを睨む。
「ごめん、いつもタイミング悪く登場するね」
「そうなんですよ!島村さんはいつもそう!責任とってください!」
「責任?」
「はい!」
美香は真剣な顔をして強く頷いた。
「はあぁ」
ジョーは息を吐くと、つかつかとフランソワーズに言い訳しているフィリップの元へ。
「フィリップ、佐伯さん放置して何してんだ?」
ぐいっとフィリップの胸ぐらを掴む。
フィリップが一瞬怯む。
「ちょっと!ジョー、やめなさいよ!」
フランソワーズが制止しようとするがジョーは構わず続ける。
「女1人も助けられないで、何やってるんだ、フランソワーズに言い訳するなんて10年早い!」
「は?」
美香が思わず声を出す。
「え?」
ジョーが美香を見る。
ちがうちがうと首を振る。
「違うか…」
フィリップの胸ぐらを離すと、ジョーはフランソワーズの元に向かう。
「え?」
「は?」
「ま!」
「ちょっと!何してるのよ!」
フランソワーズが真っ赤になり抗議をする。
美香とフィリップは固まったまま。
「島村さん…そこまでは…」
美香が慌てる。
「何を今更、こっちだってスッゲー恥ずかしいんだからな!」
美香に食ってかかるジョー。
いきなり不意打ちにキスをされ、真っ赤になったフランソワーズを、フィリップは
「とっても綺麗です…フランソワーズさん」
とうっとり見ている。
「島村さんっ!全然効果なかったじゃないですか!」
美香が小声で抗議を続ける。
「もう知らないよ!勝手にしろよ!」
様々な思惑が入り乱れる狭い空間。
この話はまだまだ終われそうもない…
かな?
〜おしまい〜
2017.5.20〜6.26